生まれた時に還る、ということ。
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2021
3
Jul
生まれた時に還る、ということ。

 

心の底から愛している一枚。この写真を撮らせてくれたのは、他ならぬ娘のお陰。ありがとう。

 

 

父は数年前、思いがけない事故で障害者一級となった。

 

6年くらい前、ある冬の日。還暦を過ぎてまだ1年くらいだっただったろうか。

深夜、母から受けた知らせで駆けつけた病院のベッドに、変わり果てた姿の父が横たわっていた。

 

奇跡的に一命はとりとめた。が、意識は数ヶ月戻らなかった。無数の管に繋がれたまま、植物状態の日々が続いた。

皮肉なことに、それが父の“第二の人生”の幕開けだった。

 

・・・

 

やりたいこともあっただろう。
行きたい場所もあっただろう。
会いたい人もいただろう。

 

日曜の朝、誰よりも早起きして得意のクラムチャウダーを作るのが好きだったあの父が、スナックで得意げに歌謡曲を歌い上げるのが好きだった父が、後遺症のお陰でしゃべることも、立ち上がることも、食事もトイレも一人ではできなくなってしまった。

 

死にたい。

きっと、そう何度も願ったかもしれない。
怖くて、未だにそのことについては封をしたままだ。

 

しかし、長い年数を掛けて緩やかに、父は奇跡的に回復を遂げていく。

 

ぼとぼと食べ物をこぼしながらも、無言で箸を握り、立ち上がろうとし、思い出すように言葉を手繰る。

特に、親戚や友人を前にした時の父は、信じられないくらい「あの頃の父」に戻る。筋肉の衰えのせいでくぐもってはいるけど、言葉も抑揚も、笑顔さえも、あの頃のままを見事に再現する。

 

だから、みんな「変わらないね!すごいね!」と純粋に激励の言葉を掛けて帰っていくんだけど、そのあとどっと疲れて意識を失うように眠りにつく。

そんな無理を推してでも正常を保とうとするのはなぜか?無傷に残っている過去の記憶とプライドの為せる技なんだろう。

・・・

良い変化もあった。

それまで、蒸発していくコップの水のように薄まっていく家族の関係性は、激変した。

 

年に数回だった子どもたちの帰省は月に1〜2度と増え、LINEグループでも家族のやり取りが活発になった。持病を抱えてフルタイム介護の母の気苦労は計り知れないが、不思議と、昔より笑顔も増えている。

働き者の母は、言うことを聞かない父と口喧嘩しながらも仲が良く見える。自らの新たな使命を全うしよう、そんな気持ちでいるのかもしれない。カンタンなことではない。

 

父の存在が、傷口を塞ぐかさぶたのように、家族の絆を再び結びつけている。

どんな不幸なことが起きても、人は気持ち次第で「幸せ」を感じることが出来るのかもしれない。

 

・・・

「一人でうどんが食べられるようになりました。」
「一人でトイレに行けるようになったよ。」
「一人で歯磨きができるようになったよ。」

 

生まれた娘の成長よりも緩やかなスピードではあるけど、父は父の人生を必死で生き、出来ることを増やしていく。

 

40歳を前にして僕は、もう手遅れになりかけていた「自分の人生のこれから」について考えた。

きっかけの一つは、父の存在だ。

 

僕らはみな年老いていく。遅かれ早かれ、望むと望まないとに関わらず、“その時”はやってくる。

 

出来ればその時までに、「やりたかったこと」の多くを体験しておきたい、と思う。

我慢とか諦めの達人になる道ではなく、「わが道」を極める生き方を選ぶこと。

 

後悔のない人生があるとすれば、「やりたかったリスト」が二重線で消し込みされた人生のことを言うんじゃないだろうか。

 

好奇心がある限り、人は前を向いていける。
どんな些細な目標でも、動機が生まれれば人は歩いていける。

 

鎌倉が大好きだった父に、先日鎌倉の風景や寺社仏閣の風景写真家・原田寛氏の写真集をプレゼントしたら、たいそう喜んでくれた。

「5000円くらいだろ?」父の勘は恐ろしく冴えていた。定価は5000円。が、中古本なので実際は2,500円だったよ、というのはあえて内緒にしておくとして。

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2021
3
Jul

生まれた時に還る、ということ。

Dad, mam

 

心の底から愛している一枚。この写真を撮らせてくれたのは、他ならぬ娘のお陰。ありがとう。

 

 

父は数年前、思いがけない事故で障害者一級となった。

 

6年くらい前、ある冬の日。還暦を過ぎてまだ1年くらいだっただったろうか。

深夜、母から受けた知らせで駆けつけた病院のベッドに、変わり果てた姿の父が横たわっていた。

 

奇跡的に一命はとりとめた。が、意識は数ヶ月戻らなかった。無数の管に繋がれたまま、植物状態の日々が続いた。

皮肉なことに、それが父の“第二の人生”の幕開けだった。

 

・・・

 

やりたいこともあっただろう。
行きたい場所もあっただろう。
会いたい人もいただろう。

 

日曜の朝、誰よりも早起きして得意のクラムチャウダーを作るのが好きだったあの父が、スナックで得意げに歌謡曲を歌い上げるのが好きだった父が、後遺症のお陰でしゃべることも、立ち上がることも、食事もトイレも一人ではできなくなってしまった。

 

死にたい。

きっと、そう何度も願ったかもしれない。
怖くて、未だにそのことについては封をしたままだ。

 

しかし、長い年数を掛けて緩やかに、父は奇跡的に回復を遂げていく。

 

ぼとぼと食べ物をこぼしながらも、無言で箸を握り、立ち上がろうとし、思い出すように言葉を手繰る。

特に、親戚や友人を前にした時の父は、信じられないくらい「あの頃の父」に戻る。筋肉の衰えのせいでくぐもってはいるけど、言葉も抑揚も、笑顔さえも、あの頃のままを見事に再現する。

 

だから、みんな「変わらないね!すごいね!」と純粋に激励の言葉を掛けて帰っていくんだけど、そのあとどっと疲れて意識を失うように眠りにつく。

そんな無理を推してでも正常を保とうとするのはなぜか?無傷に残っている過去の記憶とプライドの為せる技なんだろう。

・・・

良い変化もあった。

それまで、蒸発していくコップの水のように薄まっていく家族の関係性は、激変した。

 

年に数回だった子どもたちの帰省は月に1〜2度と増え、LINEグループでも家族のやり取りが活発になった。持病を抱えてフルタイム介護の母の気苦労は計り知れないが、不思議と、昔より笑顔も増えている。

働き者の母は、言うことを聞かない父と口喧嘩しながらも仲が良く見える。自らの新たな使命を全うしよう、そんな気持ちでいるのかもしれない。カンタンなことではない。

 

父の存在が、傷口を塞ぐかさぶたのように、家族の絆を再び結びつけている。

どんな不幸なことが起きても、人は気持ち次第で「幸せ」を感じることが出来るのかもしれない。

 

・・・

「一人でうどんが食べられるようになりました。」
「一人でトイレに行けるようになったよ。」
「一人で歯磨きができるようになったよ。」

 

生まれた娘の成長よりも緩やかなスピードではあるけど、父は父の人生を必死で生き、出来ることを増やしていく。

 

40歳を前にして僕は、もう手遅れになりかけていた「自分の人生のこれから」について考えた。

きっかけの一つは、父の存在だ。

 

僕らはみな年老いていく。遅かれ早かれ、望むと望まないとに関わらず、“その時”はやってくる。

 

出来ればその時までに、「やりたかったこと」の多くを体験しておきたい、と思う。

我慢とか諦めの達人になる道ではなく、「わが道」を極める生き方を選ぶこと。

 

後悔のない人生があるとすれば、「やりたかったリスト」が二重線で消し込みされた人生のことを言うんじゃないだろうか。

 

好奇心がある限り、人は前を向いていける。
どんな些細な目標でも、動機が生まれれば人は歩いていける。

 

鎌倉が大好きだった父に、先日鎌倉の風景や寺社仏閣の風景写真家・原田寛氏の写真集をプレゼントしたら、たいそう喜んでくれた。

「5000円くらいだろ?」父の勘は恐ろしく冴えていた。定価は5000円。が、中古本なので実際は2,500円だったよ、というのはあえて内緒にしておくとして。

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