心の底から愛している一枚。この写真を撮らせてくれたのは、他ならぬ娘のお陰。ありがとう。
父は数年前、思いがけない事故で障害者一級となった。
6年くらい前、ある冬の日。還暦を過ぎてまだ1年くらいだっただったろうか。
深夜、母から受けた知らせで駆けつけた病院のベッドに、変わり果てた姿の父が横たわっていた。
奇跡的に一命はとりとめた。が、意識は数ヶ月戻らなかった。無数の管に繋がれたまま、植物状態の日々が続いた。
皮肉なことに、それが父の“第二の人生”の幕開けだった。
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やりたいこともあっただろう。
行きたい場所もあっただろう。
会いたい人もいただろう。
日曜の朝、誰よりも早起きして得意のクラムチャウダーを作るのが好きだったあの父が、スナックで得意げに歌謡曲を歌い上げるのが好きだった父が、後遺症のお陰でしゃべることも、立ち上がることも、食事もトイレも一人ではできなくなってしまった。
死にたい。
きっと、そう何度も願ったかもしれない。
怖くて、未だにそのことについては封をしたままだ。
しかし、長い年数を掛けて緩やかに、父は奇跡的に回復を遂げていく。
ぼとぼと食べ物をこぼしながらも、無言で箸を握り、立ち上がろうとし、思い出すように言葉を手繰る。
特に、親戚や友人を前にした時の父は、信じられないくらい「あの頃の父」に戻る。筋肉の衰えのせいでくぐもってはいるけど、言葉も抑揚も、笑顔さえも、あの頃のままを見事に再現する。
だから、みんな「変わらないね!すごいね!」と純粋に激励の言葉を掛けて帰っていくんだけど、そのあとどっと疲れて意識を失うように眠りにつく。
そんな無理を推してでも正常を保とうとするのはなぜか?無傷に残っている過去の記憶とプライドの為せる技なんだろう。
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良い変化もあった。
それまで、蒸発していくコップの水のように薄まっていく家族の関係性は、激変した。
年に数回だった子どもたちの帰省は月に1〜2度と増え、LINEグループでも家族のやり取りが活発になった。持病を抱えてフルタイム介護の母の気苦労は計り知れないが、不思議と、昔より笑顔も増えている。
働き者の母は、言うことを聞かない父と口喧嘩しながらも仲が良く見える。自らの新たな使命を全うしよう、そんな気持ちでいるのかもしれない。カンタンなことではない。
父の存在が、傷口を塞ぐかさぶたのように、家族の絆を再び結びつけている。
どんな不幸なことが起きても、人は気持ち次第で「幸せ」を感じることが出来るのかもしれない。
・・・
「一人でうどんが食べられるようになりました。」
「一人でトイレに行けるようになったよ。」
「一人で歯磨きができるようになったよ。」
生まれた娘の成長よりも緩やかなスピードではあるけど、父は父の人生を必死で生き、出来ることを増やしていく。
40歳を前にして僕は、もう手遅れになりかけていた「自分の人生のこれから」について考えた。
きっかけの一つは、父の存在だ。
僕らはみな年老いていく。遅かれ早かれ、望むと望まないとに関わらず、“その時”はやってくる。
出来ればその時までに、「やりたかったこと」の多くを体験しておきたい、と思う。
我慢とか諦めの達人になる道ではなく、「わが道」を極める生き方を選ぶこと。
後悔のない人生があるとすれば、「やりたかったリスト」が二重線で消し込みされた人生のことを言うんじゃないだろうか。
好奇心がある限り、人は前を向いていける。
どんな些細な目標でも、動機が生まれれば人は歩いていける。
鎌倉が大好きだった父に、先日鎌倉の風景や寺社仏閣の風景写真家・原田寛氏の写真集をプレゼントしたら、たいそう喜んでくれた。
「5000円くらいだろ?」父の勘は恐ろしく冴えていた。定価は5000円。が、中古本なので実際は2,500円だったよ、というのはあえて内緒にしておくとして。